私の履歴書 鈴木直哉

「そうだ ニューヨーク、行こう。」

日立製作所で営業として働いていた2014年4月のある日、僕は唐突にこんなことを思い立ちました。

そして、1年程度の準備期間を経て、僕はアメリカはニューヨークにある美術大学へグラフィックデザインを勉強するため旅立ちます。

一橋大学を卒業して日立製作所で働くという、世間一般的には順風満帆な人生を送ってきましたが、ここから大きく僕の人生は変わっていきました。

レールに敷かれた人生から脱線した男の半生をシェアしたいと思います

3分程度で読み終わりますので、どうかお付き合い頂けると幸いです。

 

魁男塾のような高校時代

埼玉県内の浦◯高校という埼玉の男子校に進学しました。

この高校は中々くせの強い学校で、例えば下記のようなイベントがあります。

 

・毎月のようにクラス対抗のスポーツ大会がある(もちろん受験生である3年生も参加は義務、センター試験の1週間前にラグビー大会あり、そこで燃え尽きるまたは大怪我で浪人を覚悟する人多数)

 

・新入生のオリエンテーションが応援団によって主催される。団長による開催の挨拶は「男の挨拶は押忍である」。二度と忘れることはないだろう

 

・新入生歓迎マラソンがある(もっと別の歓迎の仕方があるのではないか?)

 

・臨海学校で1年生400名が赤いふんどしを着用して、伊豆の海を1500m「エンヤ~コラ~」といいながら遠泳する

 

・埼玉県から茨城県まで、総距離約51Kmを走る(歩く)とい通称古賀マラソンという強歩大会がある(ちなみに応援部の面々は往復しなければならない!)

 

・姉妹校の神奈川県の湘◯高校(共学)と毎年対抗戦があるが、男子校である我々はここぞとばかりに女子高生の姿を目に焼き付ける

 

などなど。

今思うに大分変な高校でしたね。

高校がこんなだから、そこに通う学生も変な人が多かったと思います。

(冷房が学校にないので家から扇風機を担いできたTくん、弁当を冷凍させたまま持ってきて、食べれねえ!と絶叫していたMくんなどなど)

この3年間で、個性を持ち続けることの大切さを学んだ気がします。

高校時代はバスケに打ち込み、見事浪人を確定させました!!

1日10時間勉強。地獄の浪人時代

代々木ゼミナールの代々木校に通いました。

さすがにここでサボったらあとはないと思い勉強しまくりました。平均1日10時間、最高1日16時間くらい勉強しました。

起きる→飯→勉強→飯→勉強→飯→勉強→寝る、たまに××、以上。

目標を設定して、自分の持つリソースを評価し、それを地道にPDCAを回しながら改善していけば、無理めな目標も達成できるということを学びました、今思うに。

数学の荻野先生と日本史の土屋先生が強烈でした。良かったらYouTubeで見てみてください!普通にキャラがおもろいです。

青春を取り戻す大学時代

 浪人時代に苦労したおかげで、第一志望の一橋大学経済学部に進学できました!!

なぜ一橋を目指したか?と問われると、「あの有名の教授の元で最新の経済理論を学びたい!」とか「社会科学の最高学府で、ビジネスマインドを鍛えたい!!」とかそんな理想は全くなく、ただ偏差値が高かったから受かれば自慢できんじゃね。というのが正直なところです。

そんな不純な動機で入学したので、真面目に経済学を学ぶわけがありません。

ただ運動は好きだったので、たまたま新歓で連れて行かれたフィールドホッケー部に入部して、大学時代の4年間はホッケーと合コンにひたすら打ち込みました。

余談ですが、僕の通った浦◯高校の学生は男子校ということもあり高校3年間の間、まともに話した異性は母親と姉または妹のみという人も少なくありません、、

僕もその例外にもれず、大学の最初の頃は社会復帰するのに大変苦労しました泣

ちなみにたまたま巡り合ったフィールドホッケーは、割と相性が良かったみたいで、大学時代は2部リーグのMVPにも選ばれたこともあります。ええ、自慢です。

島耕作に憧れて。日立製作所に入社

これまた大学の選択基準とあまり変わりませんが、なぜ日立製作所を選んだの??と聞かれても正直なところそんな大した理由もありません。

世間体がいい、有名、安定してそう、それなりに給料もらえる、etc。

強いていえば大学時代にはまった「課長 島耕作」に憧れ、僕も家電メーカーに入って大町久美子やアイリーンといった美女にモテモテのビジネスパーソンになりたかった、そんなところでしょうか。

あとは大学時代からちょくちょく海外旅行をするようになり、なんとなく海外で働いてみたい!という願望もありましたので、海外に多くの拠点がある日立を選びました。

そして最初に所属されたのが、日立の中では傍流の家電品を扱う事業部でした。

当時韓国企業の台頭もあり、日本の家電メーカーはどこも苦戦しており日立も例外ではありませんでした。ぶっちゃけ僕が入社してから黒字を計上した年を見たことがありません泣

そして僕が入社して2年後の2009年に、日立製作所は歴史的な大赤字を記録しました。

この頃からこの会社ヤバイなと感じはじめ、いつでも転職できるように自分の価値を高めようという意識が芽生え、自己啓発に傾倒するようになりました。

英会話、各種セミナー、読書(主に大前研一本)、勉強会などいろいろやりましたね~

今思うに、中途半端に業績のいい部署に配属されて、現状に満足し自分の能力を高めることをしないままでいたらと思うと、ゾッとしますね。

しかし、職場は和気あいあいとしていて、今思うと楽しかったです。

ディスイズアメリカ。海外研修時代

そんな苦しい状況の中、大変お世話になっていた上司が僕の長年の要望を叶えてくれ、アメリカのサンディエゴにある支社に1年研修に行かせていただくことになりました。

アメリカでの学びは、「自分の人生は自分だけのものであり、自分を押し殺してまでやりたくないこと、楽しくないことはやる必要はない」と言うこと。

アメリカでは良い意味でも悪い意味でも、自分の幸せを第一に考えている人が多く、今まで自分が育ってきた環境とは180度違う価値観を持つ人と多く出会うことができました。

この頃から漠然と、本当に今やっていることを自分は心から楽しめているのだろうか?と考え始めるようになりました。

営業ヤダ。日本帰国、異動

アメリカから帰国後、所属していた家電事業部の縮小に伴い、鉄道事業部に異動となりました。しかも今までやってきた生産管理と異なる営業部へ。

就職前から営業だけは絶対にやりたくないと思っていた自分としては、そこからさらに自問自答の日々が始まりました。

当時イギリスへの車両の納入を勝ち取り景気の良かった鉄道事業部への異動は、はたから見れば順風満帆なキャリアパスでしたが、自分の心の中では日増しにモヤモヤ感がましていく日々でした。

 

・実質競合がいない分野であったので、営業といいながらも注文を受けることがほぼ確約されている中での営業活動(右から左に流すだけ)

・お客の機嫌を取るための交流会という名の接待

・全く興味を持てない製品をお客に売る仕事

・声のでかいだけの人が力を持っている職場の雰囲気

 

そんなこんなで、だましだまし2年弱仕事を続けました。

周りに迷惑をかけないように最低限の仕事はこなしていましたが、全く楽しいとは思えず、終業時間が過ぎるのを今か今かと待つ生活がとても辛かった。

さよならヒタチ。日立退社

モヤモヤがつのる中、自問自答を繰り返しおぼろげながら自分の本当にやりたいことが見えてきました。

思い返せば、自分は子供の頃から有形無形のモノを作るのが好きでした。

漫画を書く、プラモデルを作る、秘密基地を作る、友達が遊ぶ場を作る・・・

何かを作っていると没頭して時間が経つのも忘れている。

こんな感覚を仕事中、常に感じることができたらなんて幸せでしょうか。

そして、僕はデザイナーの道を目指すことにしました。

一方で、自分の中の死ぬまでにやりたいリストの中に「海外留学を一度してみたい」という項目があったので、最終的にグラフィックデザインを学びに留学をすることを決断しました。

ってことで、8年に渡った会社員生活に終止符を打ちました。

30歳をすぎて、全く異分野を目指すということで色々な方に不安はないのか??など聞かれましたが、当の本人としてはやりたいことに打ち込めるというワクワク感しかありませんでした。

ハローニューヨーク。Parsons School of Design留学

先のエントリーでも述べましたがアメリカはニューヨークにあるParsons School of Designという美大に留学をしました。

10年ぶりの学生生活に戻りましたが、よく言われる「アメリカの大学は入学は簡単だけど、卒業は難しい」と言う定説にもれず、非常に厳しいカリキュラムで在学中はヒーヒー言ってましたがとても学びの多い1年と6ヶ月でした。

学校は、男子2割、残りは女子という、男子校出身の筆者としては非常に居心地の悪い空間でしたが、我の強いアメリカ人女子たちとのやりとりも今となってはいい思い出です。

また、学費が凄まじく高かったので先の記事で紹介した「$800で暮らす方法」を編み出し、厳しい学生生活をなんとかサバイブしました。

この時に、自分の生活費用を徹底的に下げる経験をしたことが、後々のノマド生活を始めるにあたり非常に有益でした。

卒業、マンハッタンでのインターン、月800ドル極貧生活

美大を卒業後、マンハッタンにあるメキシコ人デザイナーが率いるデザインスタジオでインターンをしました。

時給に換算すると$3という凄まじい低賃金労働でしたが、ニューヨークで活躍するデザイナーの元で多くの学びがありました。

ちなみに年収換算すると、日立時代に比べて10分の1程度でしょうか。

流石にこの収入では生活ができないので、30歳をすぎて初めて飲食店のキッチンでアルバイトをすることにしました。

ラーメン屋で、ラーメンはもちろんその他サイドメニューなども調理していたので、自炊のスキルがググッとあがります。

当時、金がなかったので、「いかに金をかけずに楽しむか?」をテーマに生活していました。

まあ、ニューヨークは探せばいくらでも無料のイベントがやっているので、お金なくても全然楽しめます。 

ビザ切れたので、そのままアメリカから南下して仮ノマド生活開始

2018年の4月にアメリカの滞在ビザが切れました。

残念ながら、延長はできなかったので、アメリカを出なければなりません。

そのまま日本に帰国するのも面白くないので、前からやりたかった「スペイン語留学」と「ノマド生活」をしようと思い立ち、アメリカから中南米に南下することにしました。

ちなみにスペイン語学習の目的は、ズバリ「ラテン美女をくどくため」です。

まず、向かったのが中米はグアテマラ共和国。

僕は、このグアテマラのアティトラン湖に恋をしてしまい、かれこれ6ヶ月滞在することになります。

その後、ラテン美女を求めコロンビアのメデジンに向かい2ヶ月ほど滞在した後、エクアドルのキトから日本への帰路に着きます。

 

3年半ぶりに日本帰国。フリーランスの修行のため田舎フリーランス講座に参加

中南米滞在中は、語学留学のかたわら、ノマドとしてオンラインで仕事を探してこなしてきましたが、

「ぶっちゃけお金が稼げない!!」

当初、デザイナーとしてデザインの仕事を探すものの、駆け出しのデザイナーにくる仕事などありません。

見切り発車でノマドフリーランスを始めましたが、営業術、オンラインでの仕事の見つけ方などのノウハウも全くなく、最終的には稼ぎやすかったウェブライティングの仕事で食いつなぎました。

1~2ヶ月単位で住む場所を変えるノマド生活は、飽きやすい自分にはあっていたようで、とても楽しかったのですが、オンラインで仕事を続けるは難しい。

そんなこんなで、今後のノマド生活について思案している時に、「田舎フリーランス講座」なるものを発見。

「餅は餅屋に聞け」ということで、早速現役フリーランスの講師陣にフリーランスの教えを乞うことにしました。

今後も海外ノマド生活を続けていきます

いなフリで、フリーランスの土台を固めることができたら、また海外に旅立ちます。

2019年はヨーロッパ周遊がしたい。

生活費の安い東欧の国々を1ヶ月単位で移動するイメージです。

また、引き続き旅先で嫁探しも並行して行います。

予定は、

ポーランド→ベラルーシ→ウクライナ→ルーマニア→セルビア→ボスニア→クロアチア

絵に描いた餅にならないよう、頑張ります。

 

 

長文、駄文でしたが最後までお読みいただきありがとうございました!!