あんた誰??​

Naoのプロフィール

 

あんた誰!?って疑問があるはずなのでプロフィールをがっつり書きました!!

えっ、別にいらない??まあ聞いてくださいよ。

1984年生誕、生まれも育ちも埼玉県は北本です。

所謂、だ埼玉出身の田舎者です。

 

幼少期

幼少期の思い出は・・・・特にありませんね。

当時ジャイアンみたいな体型をしていて、足が太いのにホットパンツのような半パンを履いていたので、モモが擦れてよく流血していたのだけは覚えています。

あとは一般的な男子の例にもれず、ゲーム・漫画・プラモデルにのめり込んでいました

一度コロコロコミック主催のミニ四駆の大会に出場して、第1コーナーで曲がりきれず開始2秒で敗退となったのも今ではいい思い出です。

 

中学時代

 

地元の中学校に進み、当時大人気だったスラムダンクに自分もはまりミッチーのようになりたいなと思ってバスケ部に入りました。

たいして強くなかったので、マイペースで仲間と楽しみながら毎日バスケを楽しんでいました。

さすがに毎日運動をするのでみるみるうちに痩せていったのですが、痩せるほどに自分の身だしなみ・外見が気になりはじめ妙に女子を意識してしまい、まともにしゃべれなくなってしまいました(いわゆる思春期というやつですね)。

この克服は大学まで持ち越されます。

勉強は結構できる方だったので、中学のテストでは自慢ですけど大体1位でした。

当時埼玉県では、北辰テストという模試のようなものがあり、僕が通っていた塾では、そのテストで上位の点数をとった時にボーナスをくれるという制度があり、それで結構なお金を稼いでいました。(例えば200満点中180点以上取ると3万円)

今思うに、自分のスキルをうまく活用すればお金を稼ぐことできたという初めての経験です。

僕にとっては大きな原体験ですね。

 

高校時代

埼玉県内の浦◯高校という埼玉の男子校に進学しました。

この高校は中々くせの強い学校で、例えば下記のようなイベントがあります。

・毎月のようにクラス対抗のスポーツ大会がある(もちろん受験生である3年生も参加は義務、センター試験の1週間前にラグビー大会あり、そこで燃え尽きるまたは大怪我で浪人を覚悟する人多数)

 

・新入生のオリエンテーションが応援団によって主催される。団長による開催の挨拶は「男の挨拶は押忍である」。二度と忘れることはないだろう

 

新入生歓迎マラソンがある(もっと別の歓迎の仕方があるのではないか?)

 

・臨海学校で1年生400名が赤いふんどしを着用して、伊豆の海を1500m「エンヤ〜コラ〜」といいながら遠泳する

 

埼玉県から茨城県まで、総距離約51Kmを走る(歩く)とい通称古賀マラソンという強歩大会がある(ちなみに応援部の面々は往復しなければならない!)

 

・姉妹校の神奈川県の湘◯高校(共学)と毎年対抗戦があるが、男子校である我々はここぞとばかりに女子高生の姿を目に焼き付ける

などなど。

今思うに大分変な高校でしたね。

高校がこんなだから、そこに通う学生も変な人が多かったと思います。

(冷房が学校にないので家から扇風機を担いできたTくん、弁当を冷凍させたまま持ってきて、食べれねえ!と絶叫していたMくんなどなど)

この3年間で、個性を持ち続けることの大切さを学んだ気がします。

高校時代はバスケに打ち込み、見事浪人を確定させました!!

 

浪人時代

 

代々木ゼミナールの代々木校に通いました。

さすがにここでサボったらあとはないと思い勉強しまくりました。平均1日10時間、最高1日16時間くらい勉強しました。

起きる→飯→勉強→飯→勉強→飯→勉強→寝る、たまに××、以上。

目標を設定して、自分の持つリソースを評価し、それを地道にPDCAを回しながら改善していけば、無理めな目標も達成できるということを学びました、今思うに。

数学の荻野先生と日本史の土屋先生が強烈でした。良かったらYouTubeで見てみてください!普通にキャラがおもろいです。

大学時代

浪人時代に苦労したおかげで、第一志望の一橋大学経済学部に進学できました!!​

なぜ一橋を目指したか?と問われると、「あの有名の教授の元で最新の経済理論を学びたい!」とか「社会科学の最高学府で、ビジネスマインドを鍛えたい!!」とかそんな理想は全くなく、ただ偏差値が高かったから受かれば自慢できんじゃね。というのが正直なところです。

そんな不純な動機で入学したので、真面目に経済学を学ぶわけがありません。

ただ運動は好きだったので、たまたま新歓で連れて行かれたフィールドホッケー部に入部して、大学時代の4年間はホッケーと合コンにひたすら打ち込みました。

余談ですが、僕の通った浦◯高校の学生は男子校ということもあり高校3年間の間、まともに話した異性は母親と姉または妹のみという人も少なくありません、、

僕もその例外にもれず、大学の最初の頃は社会復帰するのに大変苦労しました泣

ちなみにたまたま巡り合ったフィールドホッケーは、割と相性が良かったみたいで、大学時代は2部リーグのMVPにも選ばれたこともあります。ええ、自慢です。

日立製作所に入社

これまた大学の選択基準とあまり変わりませんが、なぜ日立製作所を選んだの??と聞かれても正直なところそんな大した理由もありません。​

世間体がいい、有名、安定してそう、それなりに給料もらえる、etc。

強いていえば大学時代にはまった「課長 島耕作」に憧れ、僕も家電メーカーに入って大町久美子やアイリーンといった美女にモテモテのビジネスパーソンになりたかった、そんなところでしょうか。

あとは大学時代からちょくちょく海外旅行をするようになり、なんとなく海外で働いてみたい!という願望もありましたので、海外に多くの拠点がある日立を選びました。

そして最初に所属されたのが、日立の中では傍流の家電品を扱う事業部でした。

当時韓国企業の台頭もあり、日本の家電メーカーはどこも苦戦しており日立も例外ではありませんでした。ぶっちゃけ僕が入社してから黒字を計上した年を見たことがありません泣

そして僕が入社して2年後の2009年に、日立製作所は歴史的な大赤字を記録しました。

この頃からこの会社ヤバイなと感じはじめ、いつでも転職できるように自分の価値を高めようという意識が芽生え、自己啓発に傾倒するようになりました。

英会話、各種セミナー、読書(主に大前研一本)、勉強会などいろいろやりましたね〜

今思うに、中途半端に業績のいい部署に配属されて、現状に満足し自分の能力を高めることをしないままでいたらと思うと、ゾッとしますね。

海外研修

そんな苦しい状況の中、大変お世話になっていた上司が僕の長年の要望を叶えてくれ、アメリカのサンディエゴにある支社に1年研修に行かせていただくことになりました。​

アメリカでの学びは、「自分の人生は自分だけのものであり、自分を押し殺してまでやりたくないこと、楽しくないことはやる必要はない」と言うこと。

アメリカでは良い意味でも悪い意味でも、自分の幸せを第一に考えている人が多く、今まで自分が育ってきた環境とは180度違う価値観を持つ人と多く出会うことができました。

この頃から漠然と、本当に今やっていることを自分は心から楽しめているのだろうか?と考え始めるようになりました。

日本帰国、異動

アメリカから帰国後、所属していた家電事業部の縮小に伴い、鉄道事業部に異動となりました。しかも今までやってきた生産管理と異なる営業部へ。​

就職前から営業だけは絶対にやりたくないと思っていた自分としては、そこからさらに自問自答の日々が始まりました。

当時イギリスへの車両の納入を勝ち取り景気の良かった鉄道事業部への異動は、はたから見れば順風満帆なキャリアパスでしたが、自分の心の中では日増しにモヤモヤ感がましていく日々でした。

そんなこんなで、だましだまし2年弱仕事を続けました。

日立退社

モヤモヤがつのる中、自問自答を繰り返しおぼろげながら自分の本当にやりたいことが見えてきました。​

思い返せば、自分は子供の頃から有形無形のモノを作るのが好きでした。

漫画を書く、プラモデルを作る、秘密基地を作る、友達が遊ぶ場を作る・・・

何かを作っていると没頭して時間が経つのも忘れている

こんな感覚を仕事中、常に感じることができたらなんて幸せでしょうか。

そして、僕はグラフィックデザイナーを入り口にクリエイターの道を目指すことにしました。(この辺の話はまた長くなるので別の投稿で言及したいと思います)

一方で、自分の中の死ぬまでにやりたいリストの中に「海外留学を一度してみたい」という項目があったので、最終的にグラフィックデザインを学びに留学をすることを決断しました。

ってことで、8年に渡った会社員生活に終止符を打ちました。

30歳をすぎて、全く異分野を目指すということで色々な方に不安はないのか??など聞かれましたが、当の本人としてはやりたいことに打ち込めるというワクワク感しかありませんでした。

 

Parsons School of Designに留学

先のエントリーでも述べましたがアメリカはニューヨークにあるParsons School of Designという美大に留学をしました。​

10年ぶりの学生生活に戻りましたが、よく言われる「アメリカの大学は入学は簡単だけど、卒業は難しい」と言う定説にもれず、非常に厳しいカリキュラムで在学中はヒーヒー言ってましたがとても学びの多い1年と6ヶ月でした。

学費が凄まじく高かったので先の記事で紹介した「$800で暮らす方法」を編み出し、厳しい学生生活をなんとかサバイブしました。

卒業、マンハッタンでのインターン

美大を卒業後、マンハッタンにあるメキシコ人デザイナーが率いるデザインスタジオでインターンをしました。​

時給に換算すると$3という凄まじい低賃金労働でしたが、ニューヨークで活躍するデザイナーの元で多くの学びがありました。

ちなみに年収換算すると、日立時代に比べて10分の1程度でしょうか。

まあ、金ないなりに楽しめてるからいんですけどね〜

 

ビザ切れた、そしてこれから

この記事を書いている2018年1月の1ヶ月後にビザが切れます。​

延長はできなかったので、アメリカを出なければなりません

色々考えた末、今後の予定としては

・グアテマラでスペイン語を学ぶ

・そのまま中南米をフリーランスの仕事をしながら周る

・最終的にスペインのバルセロナに移住する

って感じを考えています。

色々なところを旅をしてきて、スペイン語圏の国に非常に強い親近感と居心地の良さを感じてきたので、扶養するべき家族もいない身軽な僕は自分の本能の赴くままにこれからも人生を歩んでいきたいと思います。

長文、駄文でしたが最後までお読みいただきありがとうございました!!